昭和五十七年七月二十七日 朝の御理解

御理解第六十二節 昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ、にわかに先生にはなれぬぞ。

 漠然と神様がわかる、お願いをするおかげを頂く、そういう不思議とも奇跡とも思われるようなおかげを受けて、成程神様はござるなあと神様の働きという事を、はっきりそこにわかるというような、はっきりと段々わかってくるその神様が漠然とではなくて、微妙にまで繊細な、いうなら事柄の中にも神様が、こういう生き生きとした働きを、示して下さる現して下さると、わかるという事が信心です。一段一段進んで行くのでと、おっしやるのは漠然とわかった神様が段々、いわゆるリアールになってくるリアールに感じれれるようになってくる、もう本当に繊細な事柄の中にも神様がこういう働きを下さると段々それが微妙に分かって行くところから生まれて来るのが安心です。
 漠然とした神様では、ああ、あん時あげなおかげを頂いた、確かに神様がござるという程度の時には安心なんか頂けるものぢゃない、もう微妙に微妙に神様を感じまたそれを現す、そういうこんな事の中にもこういう神様の働きがいつもあってるんだという実感、その実感が安心それが積もり積もって安心の徳となるのです。昨日、研修の時にお話した事ですけれども、最近吉井の熊谷さんが毎朝ああしてお届けに、お届けになるその内容が変わって来た。というのは親先生今日もあの世へ持って行けるものを頂き感じましたという御礼であるね、本当に結構な事を頂いて有り難いお話を頂いて有難いというのではなくて、その教えを頂いて実験実証さして頂いて、その実験実証こそがあの世に持って行けるのだというのです。
 私はそれを聞いて、熊谷さんこりやもう老若男女といったような事ではないですね、若いから年を取っておるからぢゃない、熊谷さん自身がもう八十五ですか、六でしょうか、そのような高齢であんなさるし、何十年間お日参りを続けられて、いうなら初めての一つの悟りというのぢゃないでしょうか、ですから、もう日々有難いお話を頂かずにはおられない、またそれを実験せずにはおられない、生まれてくる実証そのものがあの世に持って行けるというのです。で、昨日修行生の先生方に話したことですけれども、皆さんの場合は、日々が実験実証、それがあなた方が布教に出た時の元手になるんだ、というふうに申しました。
 だから日々がです、繊細な事の中にも神様の働きを全身全霊で受け止める稽古です、信心は、こういう大きな一つの難儀を、お願いして一生懸命拝んで、その事が成就したとか、おかげを受けたとかいうような漠然としたおかげ、漠然とした神様からね、リアールという言葉が最近は使われますが、リアールなまでの神様ね、微妙なまでのおかげの実感、それがなら有難い話を頂いて、その話が実験され実証されて初めてこれが布教に出た時の元手になるんだね、これを熊谷さんに言わせると、あの世行きのおみやげがまた一つ出来ましたというのである。ですからもうそれが楽しい、成程この世はあの世の為にあるという事は、そういう事であろうね、いよいよ教えを頂く事も楽しいなら教えを実験させて頂く事もまた有難い、そこに生まれてくる実証それが安心のおかげの元になるのです。
 こんな、こんな所まで神様のお働きが受けられる、受けて神様のお働きをそこに実感する、その実感こそが安心のおかげで漠然とした神様をつかんだんでは安心は生まれてこないね。一段一段信心が進んでいくというのは、漠然とした神様から段々それがね、もう本当に微に入り細に渡ってまでの、神様の働きを実感できれるようになってくる事が、一段一段信心がわかってくる事であり一段一段信心が進んでいっておるというのぢゃないでしょうかね、そしてこれは実感として成程、この世はあの世の為にあるというような、ギリギリのところまでそれを、聞いてわかったというだけでなくて、実感として感じれれるようなおかげを頂いたら、成程信心は有難いものだ、いや楽しいものだというところまで高められてこなきゃならんと思うです。  どうぞ